河内宙夢 詩、日記

コウチヒロム 日記、詩、活動

6/6

最近はもっぱらニーナシモン。私は金がない、父がない、母がない、家がない、靴がない、愛がない・・・・。だけど私には手がある、顔がある、足がある、内臓がある、魂がある、人生がある・・・ってすごくないすか。シビレました。ジョンレノンの「GOD」を思い出すけど、ジョンはこれパクったのかな。でもニーナシモンにはジョンの歌にはない肯定感がある。

ジョンは最後「GOD」で「I just believe in me」と言っているけど、そこには肯定がない。自分に閉じこもってしまっている感じがある。でもそういうところが昔は好きだったのかも。

もしかしたらそこに白人と黒人の違いがあるのかな。にじみ出る肯定と否定。

キリスト教はyou are wrongの宗教だと鶴見俊輔は言ってたけども、ロック(うぇ!)はやっぱり「否定」の音楽なのかしら。

ニーナシモンはyou are not wrongと言ってくれる。僕は I’m not wrong と言いたいだけの子供だ。

この前テレビである学者が、普遍的な事象をいかに時代的な言葉で語るか、と言っていた。ビビッと来た。これはニーナシモンにもジョンにも、いわゆるスターに共通している。僕はスターが好きだ。みんな嫌な奴だからね。

僕は語りすぎだ。僕は語るのがいやで、歌を歌っているのに、歌でも僕は語りすぎている気がする。語らないことを語らないと。語らない言葉を探さないと。

 

5/24

母親と喧嘩をした。「アンタ、イツマデブラブラシテンノヨ」静かに怒っているようなその声は、少しかすれて、ぐっと感情を抑えたように震えていた。たぶんずっと言いたくて我慢していたのだろうな。他愛のない会話をしていた昨日も、実はタイミングを伺っていたのだ。

未来という言葉はいまの僕にとって、ペッとないがしろにすることもできないし、かといってあまり意識して大切にしていたくもない、でもいつかは取り出さなければいけない、鍵付きのショウケースの中に入っている、何年も取り出されていないよくわからない置物みたいな感じで扱っていたから、そこを母親にバリン!と割られて、ホレ、これどうすんのよ!みたいにされて、かなり戸惑い、少し感情的になってしまった。(いい年をして・・・)

今年の母の日は、別に毎年特に何もしていないけど、たまたま母がいつも行っている駅前のスターバックスが改装中だったので、かわりに、駅近くにあって僕が良く行っている個人経営の小さな喫茶店に連れて行ってあげた。だけど母は入口から拒絶反応を起こした。

「私こういうオシャレなところ無理なのよ」「私はおばさんだから、こういうのは若い人たちがいっぱいいるから・・・」「長い時間居れないし・・・」

全部スタバにも当てはまる気がするけど・・・と僕は言いながら、嫌がる母をとりあえず座らせた。しかし母は終始落ち着かずそわそわして、ついにはいつも持ち歩いている薄いピンクの花びらがプリントされてある、マイタンブラーを取り出し、頼んでいたアイスコーヒーをガバッと入れて、それをカバンに入れて足早に帰っていった。

ものの数秒ですっからかんにされたアイスコーヒーのグラスは、ポカーンとして、なんだか間抜けで、僕はちょっと笑ってしまった。

その時僕は、なぜか母親を愛しく思った。僕は空になったグラスをじっと見ながら、湧きあがった自分の感情にちょっと驚いた。そこには抗えないなにかが確かにあって・・・ってまあそんな大した話でもないからもうやめよ。そして美談でも何でもない。ただのマザコン話です。

なんでもかんでもシリアスに考えてしまうのは自分の悪い癖というか、本の毒に侵されたというか。まあ、そうでもしないと歌はかけないというのもあるけど。

ジムモリソンも寺山修二も、父を殺し、マザーをファックしたというのに一方おれは、母に怒られてシュンとしている。駄目ですねこりゃ。

5/3

ゴールデンウィークなので、新宿へ行って、映画「PARKS」を見た。休日に浮足立つ歩行者天国の中、僕も一緒に浮足立って映画館へ。

PARKSは、映画の予告編とかみて、勝手に僕の好きなジョン・カーニーのような音楽映画の日本版だと期待して見に行きましたが、想像と違いました。そこには音楽の氾濫もなく、バンドのカタルシスもなく、なんというか映画の中で音楽の魔法は感じることができなかった。映画の中のドラマも、大学生の青春を描き出すかと思いきやそこにあったのは偽物臭い青春でした。青春を描くなら僕はもっと突き抜けてほしかった。青春に破滅的なところや、刹那やカルト性を求めてしまうのは僕が時代遅れなのかもしれないが、そんな時代遅れの青春がいまだキラキラ輝いているところが僕にとっての吉祥寺でもあって、そんなところが好きな街でもあるので、そこは残念だった。

要するに、PARKSは音楽映画としてはあまりにもリアルすぎて、青春映画としてはあまりにもフィクショナルだった気がします。すくなくとも映画を見終わって、音楽を作りたくなりませんでした。何かを見て、曲を作りたくなるか否かってなんか変な基準だけど、やっぱり感動すると曲を作りたくなるし、なんか最近では、自分の大事な感覚の一つだと思って結構仲良くしています。

5月ライブ

・下北沢アーティスト

05/13(土)

吉川亮毅 河内宙夢 西松亜香音 たきもとオーケストラ130

open19:00 / 2,000yen(1ドリンク込み)

・下北沢アーティスト

05/18(木)

川端深雪 Lusica 河内宙夢 ヒロマン

open19:00 / 2,000yen(1ドリンク込み)

4月17日

最近モニタースピーカーを新しく買ったから、音楽を聴くのが楽しい。

やっぱり音は空気を通して聴くのがいいのかもしれないな。

街を歩きながら音楽を聴くのも捨てがたいけど、この前たまたまイヤフォンを家に忘れて出かけて、出がけに耳にイヤホンがついていないからなんとなく不安になって、これただの禁断症状じゃんと思ってちょっと怖くなった。だけどその日イヤフォンのない夜の帰り道は良かった。一本道はとても静かで、女たちは子供のように歌いながら帰っていた。

春の訪れにはsportsguitar を聴きたくなってしまう自分は、あのころと変わっていないか。

 

最近思ったことメモ

そこに犬がいて、その犬の可愛さを歌うかそれともそのかわいい犬が隠し持つキバを歌うか。同じ動物であるニンゲンもある種キバを持っている。しかし犬は口の皮をめくれば簡単にそのキバを見ることができるが、人間のキバはそんなに簡単に見れない。人はキバを巧妙に隠しながら生きている。むしろキバを持っていることを自覚していない人も結構いる。そしてキバを隠すことは決して悪いことではない。むしろ社会を成立させるための必須の能力だ。

出会い系サイトのプロフィールに、充実した生活を送っている様子を書く寂しい人間の心をイタくて醜いとみるか、その必死さに人間らしさ、人間のキバを見て、愛おしく感じるかどうか。今まではキバを隠すのはうそつきだと思っていた。醜いと思っていた。そしたらサリンジャーの「フラニーとズ―イ」のフラニーみたいになってしまった。僕はフラニーほど繊細じゃないから普通に生きていたけど、心の中ではフラニーのようにソファにぬいぐるみを持ってうずくまり、ただ毛布にくるまっていた。自閉したその世界はただただ美しくて汚れていなかったが、圧倒的に脆かった。なんせチキンスープすら醜いから飲みたくないのだ。だから死ぬのも嫌だし美しく生きることも不可能であると最近(今更)なんとなくわかった僕は、割と嫌な奴になった。小さいころからの友達にも嫌な奴になったと言われた。だけど嫌な奴になって結構楽になった。巧妙にキバを隠しながら人と接するようになって、何も後ろめたさは感じないし、むしろ、たまに接する人たちの純粋な心や優しさを垣間見ることができるようになった気がする。自分はまだ若い?からこれが大人になったのか、それともただ嫌な奴になっただけなのかは分からない。何の話か忘れたが、とにかくシンガーというのを考えた時に、それは犬の可愛さを歌っているのか、キバを持った犬の可愛さを歌っているのか。二つに分けることができるのではないか。はたして僕はどっちを歌うべきなのかはよくわかりません!(でもどちらも可愛さを歌っているという点は重要!)

 

4/4

久しぶりに池袋へ。吉増剛三はどこかの詩の一篇に、池袋を「ペニスの街」と書いていたが。どうだろう。確かに街のそこかしこに性のにおいが充満して、すれ違う女性たちも時折ドキッとするほど挑発的な恰好や顔立ちをしている。しかしペニスという露骨な表現は今の池袋には合わないかもしれない。新宿ほどダンディズムがなくて、渋谷ほど幼さも鋭さもないって感じの印象。ペニスというより足元からつむじまでオシャレを決め込んだ女性がコンビニ袋をぶら下げた街だ。吉増氏が見た時の池袋より今のほうが、街が女性的になったのかもしれない。街、というよりも日本が女性的になったと方が正しいかも。

途中、街頭で演説をしているおばさんが居て、その声が良くてちょっと足を止めてしまった。大したこと言ってなかったから言葉には興味なかったけど、地声ではなく、わざとらしく作った様な声に惹かれた。自分の歌の参考にと、その声の研究をするべくじっと立ち止まっていたのだがなにせ人が僕くらいしかいないもんだから、途中で嬉しそうに僕に語り掛けるような演説になってしまって、僕が聞きたいのは僕に聞かせるための声ではなくもっと多数の、誰かに向けた時の声なのに!と思って、研究をあきらめてその場を去った。

3月30日

1か月前ほどライブハウスで知り合った男に勧められたジョン・ファンテ。『塵に訊け!』。タイトルを聞いただけでびびっときて読みたかったけど読めてなかった。それを昨日読んだ。最高でした・・・。小奇麗な図書館に塵は見当たらなかった。だから外へ出て僕はビルや看板やアスファルトに訊いてみました。やっぱり何もわからなかったけど、街のその正直さになぜか僕安心して。その時詩を作りたい気持ちがムラムラと熱を帯びだしたので、近くのエクセルシオールカフェで詩を書いて熱を放出した。

本を教えてくれた人とは、連絡先を交換して、男二人で終電車に乗って話し込むほど盛り上がったけど、それ以来連絡を取っていない。もはや顔もあんま覚えていないけど 、彼が歌っていた、子供と川沿いを歩いていく歌だけは覚えている。

「街に訊く」

アスファルトに訊いてみても あすはある?と訊いてみても

分からないと言っているよ 僕はちょっと安心しましたよ

色々あった様なこの人生も 本当はなんにもなかったでしょ

幼いころに遊んだ海は 昔とちっとも変わらずたゆたう

雨の日は子供の様 街もビルも濡らすけれど 私は喜んで 私はよろめいて

ライクアローリングストーン 聴きながら 自転車を漕いでいる 生きている感じ

アイスコーヒーはカッコいいな 私の様になりなさいって

だけどいつか氷も溶けて だらしなく汗を垂らしているよ

恋をしたら獣の様 何もかも捨てるけれど 私は喜んで 私はよろめいて

ライクアローリングストーン 歌いながら 新しい靴を履き 生きている心地