河内宙夢 詩、日記

コウチヒロム 日記、詩、活動

4月17日

最近モニタースピーカーを新しく買ったから、音楽を聴くのが楽しい。

やっぱり音は空気を通して聴くのがいいのかもしれないな。

街を歩きながら音楽を聴くのも捨てがたいけど、この前たまたまイヤフォンを家に忘れて出かけて、出がけに耳にイヤホンがついていないからなんとなく不安になって、これただの禁断症状じゃんと思ってちょっと怖くなった。だけどその日イヤフォンのない夜の帰り道は良かった。一本道はとても静かで、女たちは子供のように歌いながら帰っていた。

春の訪れにはsportsguitar を聴きたくなってしまう自分は、あのころと変わっていないか。

 

最近思ったことメモ

そこに犬がいて、その犬の可愛さを歌うかそれともそのかわいい犬が隠し持つキバを歌うか。同じ動物であるニンゲンもある種キバを持っている。しかし犬は口の皮をめくれば簡単にそのキバを見ることができるが、人間のキバはそんなに簡単に見れない。人はキバを巧妙に隠しながら生きている。むしろキバを持っていることを自覚していない人も結構いる。そしてキバを隠すことは決して悪いことではない。むしろ社会を成立させるための必須の能力だ。

出会い系サイトのプロフィールに、充実した生活を送っている様子を書く寂しい人間の心をイタくて醜いとみるか、その必死さに人間らしさ、人間のキバを見て、愛おしく感じるかどうか。今まではキバを隠すのはうそつきだと思っていた。醜いと思っていた。そしたらサリンジャーの「フラニーとズ―イ」のフラニーみたいになってしまった。僕はフラニーほど繊細じゃないから普通に生きていたけど、心の中ではフラニーのようにソファにぬいぐるみを持ってうずくまり、ただ毛布にくるまっていた。自閉したその世界はただただ美しくて汚れていなかったが、圧倒的に脆かった。なんせチキンスープすら醜いから飲みたくないのだ。だから死ぬのも嫌だし美しく生きることも不可能であると最近(今更)なんとなくわかった僕は、割と嫌な奴になった。小さいころからの友達にも嫌な奴になったと言われた。だけど嫌な奴になって結構楽になった。巧妙にキバを隠しながら人と接するようになって、何も後ろめたさは感じないし、むしろ、たまに接する人たちの純粋な心や優しさを垣間見ることができるようになった気がする。自分はまだ若い?からこれが大人になったのか、それともただ嫌な奴になっただけなのかは分からない。何の話か忘れたが、とにかくシンガーというのを考えた時に、それは犬の可愛さを歌っているのか、キバを持った犬の可愛さを歌っているのか。二つに分けることができるのではないか。はたして僕はどっちを歌うべきなのかはよくわかりません!(でもどちらも可愛さを歌っているという点は重要!)